スリランカの世界遺産の中で文化三角地帯にある以下5つの世界遺産は歴史が密接に関係しています。
- シギリヤロック
- キャンディ
- ポロンナルワ
- アヌラーダプラ
- ダンブッラ石窟寺院
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歴史的な背景を理解することで各世界遺産に対する造詣が深まり、より大きな感動を味わうことが出来ます。
ただ世界史を高校時代勉強された方でも中々スリランカの歴史について勉強されたことはないかと思います。
本日は伝統と他国からの侵略の歴史について年表形式で紐解いていきたいと思います。
シンハラ王朝による古代〜中世のスリランカ
スリランカの歴史はシンハラ王朝によって始まりました。
しかし、隣接する大国インドの王朝の侵略を度々受けたことによって幾度にわたり遷都を繰り返し、最後には分裂してしまいます。
現在の文化三角地帯に密集する5個の世界遺産は全て中世までのシンハラ王朝の繁栄と衰退の軌跡でもあるのです。
年代 | 出来事 |
BC543 | シンハラ人の祖先とされるウィジャヤ王子が南インドからスリランカに上陸。その後、結婚しシンハラ王朝を建設。 |
BC377 | 王都をアヌラーダプラに建設 →最初の首都として現在世界遺産に |
BC247 | インドのマウリア朝の王、アショカの息子マヒンダに よってスリランカに仏教が伝わる。その後、ブッダガヤの菩提樹の分枝がアブラーダプラに植樹される |
1世紀 | ダンブッラ石窟寺院が開かれる |
4世紀 | 仏歯が持ち込まれアヌラーダプラに奉納 |
5世紀 | シギリヤロックに宮殿を建築。シギリヤ へ王朝が移るも、わずか11年でアヌラーダプラに戻される。 |
10世紀 | 南インドで勢力を拡大していたチョーラ王朝がアヌラーダプラを征服。シンハラ王朝は王都を破棄。 |
1017年 | シンハラ王朝の首都がポロンナルワへ移る。その後、 シンハラ王朝は交易と農業が栄えパラークラマ・バーフ1世の時に黄金期を迎える。 |
1255年 | 南インドのパーンディヤ朝に権力を以上しポロンナルワ時代の終焉。 |
14世紀半ば | キャンディの街が建設される。 |
1412年 | コッテ王国が設立 |
1469年 | キャンディ王国が設立 |
1470年 | ジャフナ王国が独立。北のジャフナ王国、中部高地のキャンディ王国、南西部のコッテ王国の三国が並び立つ時代を迎える。 |
ポルトガルによる植民地時代
中世以降は欧州列強の支配を受ける辛く長い時代が継続していきます。
まず最初はポルトガルによる植民地時代です。
ポルトガル植民地時代に世界遺産となっているゴール要塞が建設されました。
年代 | 出来事 |
1505年 | インドのポルトガル異留置総督の息子、ローレンコ・ディ・アルメイダがスリランカに漂着したことがきっかけでコッテ王国とポルトガルが友好条約を結ぶ。 |
1518年 | コッテ王国がポルトガルと衝突し撃退される。以後、 ポルトガルはキャンディ王国を除くスリランカ全土を攻略に着手。 |
1588年 | ゴールに要塞が築かれる |
1592年 | キャンディに首都が置かれ仏歯が運ばれる。 |
1603年 | キャンディ仏歯寺が建立される。 |
1611年 | ポルトガルがキャンディを占領。ポルトガル追放のためキャンディ王国がオランダ東インド会社に支援を要請 |
1638年 | ポルトガルとオランダが衝突 |
オランダとイギリスによる植民地時代
ポルトガルの次にオランダ更に大英帝国によってスリランカは植民地支配されることとなります。
19世紀に最後のシンハラ王朝であるキャンディ王国が潰えてしまいます。
しかし、この時期に大英帝国によって現在のスリランカの産業を支えるセイロンティーの栽培が始まります。
年代 | 出来事 |
1658 年 | オランダ軍がコロンボを攻略。沿岸部を中心とする島の 大半がオランダ領となる。以降、キャンディ王国以外は140年間オランダによる統治の時代となる。 |
1697 年 | キャンディの仏歯寺が再建される |
1795年 | フランスのオランダ占領を契機に大英帝国の遠征軍が スリランカに派遣される。 |
1798年 | キャンディ王国を除く地域をイギリスが占領 |
1802年 | アミアンの和約が締結され正式にイギリス領へ |
1815年 | キャンディ条約により保護国化。事実上、最後のシンハラ王朝が潰える。 |
1818年 | スリランカ全島が大英帝国の直轄植民地になる。 |
1867年 | 商業目的での紅茶栽培が始まる。 → セイロンティーの始まり |
1931年 | 一定の範囲で島民に自治を認める新憲法を発布。 普通選挙にもど突く国家評議会を設置。 |
独立〜現代まで
独立後も紛争が絶えなかったスリランカが平和を取り戻したのは2009年のことです。
以来、和平実現によって著しい経済成長を遂げています。
今後はリゾート開発やインフラ整備などの大規模な工事が絶賛進行中で観光地として飛躍的に躍進し日本からの旅行客も増えています。
年代 | 出来事 |
1948年 | イギリス連邦内で英国王を元首にいただく 『英連邦王国自治領セイロン』として独立 |
1951年 | サンフランシスコ講和条約締結後、世界で一番早く日本と外交関係を結ぶ。 |
1956年 | スリランカ自由党創設者バンダラナイケ氏が 『シンハラ人優遇政策』を掲げ選挙で圧勝。これによりタミル人が反発する。 |
1972年 | 共和制へ移行。国名を『スリランカ共和国』として独立。シンハラ語が公用語となる新憲法を発布。シンハラ人の大多数が信仰する仏教に特別な地位を与えることを宣言する。 |
1978年 | 大統領制へ移行。『スリランカ民主主義社会主義共和国』へ国名を改める。 |
1983年 | 反政府武装勢力、タイル・イーラム解放の虎(LTTE) との内戦が本格化 |
2009年 | LTTEのブラバーカラン議長が戦闘中に死亡を確認。 政府が内戦終結を宣言し、国内の緊張が緩和。 |
2015年 | 大統領選で当時与党だったスリランカ自由党から離脱 したシリセーナ氏が当選し大統領に就任。統一国民党(UNP)政権が樹立し、党首であるウィクラマシンハ氏が3期目となる首相に就任 |
2015年 | UNPが勝利。第二党のSLFPと大連立を形成。 |
敗戦国日本を救ってくれたのはスリランカ
先ほどの年表で何故、日本はスリランカと最初に外交を結んだのでしょうか?
そこには我々日本人が感謝してもしきれないスリランカへの感謝の気持ちが示されているのです。
皆さんは実は日本は第二次世界大戦後、戦勝国によって分割統治される案が存在していたことをご存知でしょうか。
1951年のサンフランシスコ講和会議で、米国、英国、ソ連、中国による日本の分割統治案が持ち上がっていました。
恐ろしいことですね。
そこで日本の救世主となってくれたのが元スリランカ大統領のジャヤワルダナ大統領のサンフランシスコ講和会議での演説です。
以下、在スリランカ日本大使館の記述を引用します。
故ジャヤワルダナ元大統領は、1951年のサンフランシスコ講和会議にセイロン代表(当時蔵相)として出席し、
「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(hatred ceases not by hatred, but by love)」
という仏陀の言葉を引用し、対日賠償請求権の放棄を明らかにするとともに、わが国を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行いました。
この演説は、当時わが国に対し厳しい制裁処置を求めていた一部の戦勝国をも動かしたとも言われ、
その後のわが国の国際社会復帰への道につながるひとつの象徴的出来事として記憶されています。
引用:在スリランカ日本大使館
更に首相官邸のHPにも以下の記述が存在します。
皆様よくご存じのとおり、1951年のサンフランシスコ講和会議において、日本の主権を擁護する演説を行って下さったのは当時のジャヤワルダナ・セイロン蔵相でありました。
今日の日本という「国のかたち」があるのは、その演説の大きな後押しを受けてのものです。
引用:首相官邸
現在の日本の国体を護持し得ているのは遠く離れたスリランカのお陰であることは我々の胸に刻んでおきましょう。
まとめ
建国から現在に至るまでインドや欧州列強からの侵略に晒され続けたスリランカ。
しかし、侵略される歴史の中でも仏教文化を昇華させ多くの世界遺産を現在に残しています。
また戦後日本との密接な関わりとスリランカへの感謝を我々日本人は忘れてはいけません。
2009年に内戦が終結し本格的に経済発展とインフラ整備が整い愈々観光大国としての地位を確立しています。
皆さんも世界遺産と我々の大恩ある国であるスリランカに足を運んでみてはいかがでしょうか。
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